美術評

写真家 / 下薗詠子

彼が踊る。
神様からのメッセージを躰で表す巫女のようだ。
神様の霊氣を吸収したり、それをキャッチして放射したり。
踊る、あるいは踊らされている姿をみると天と地のやりとりの中で眼にはみえない色彩豊かな波動が波打つ。

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編集者 / 染矢真帆

神歌は、その名の通り神に捧げるもの、祈りなのだと思うけれど、人間の意識によって定義づけられたものとはちょっと違う、もっと“根源的な何か”だと感じた。それは無意識のうちに全身を通して奏でられるもので、概念なんていう枠を完全に超えている。表現せずにはいられない何か。とにかく、現存する言葉にさえ当てはまらない何か。けれどもそうした表現は確実に人の奥を震わせる。

私はアートのことはよくわからないのだけれど、表現をすることはつながること、震わせることなのではないかと思った。「芸術家といわれる人々は狂気のように何かとつながってしまい消耗するから短命」と、星野真木さん(東京2日目トークショウゲスト)がお話しされていたことからも、芸術とはある種のチャネリングなんだなと。そしてつながったものを、思考や概念を超えた何かで表現せずにはいられなくなる原始的な身体感覚が、芸術家と呼ばれる人々には、ずっと息づいているのではないだろうか。

丹羽蒼一郎さん(東京5日目トークショウゲスト)のお話を聞いて感じたことは、太古の人々は、あらゆるものとつながりやすかったのだろうなぁ、ということ。だから美しいものを見たら、神々しいものに触れたら、表現せずにはいられなかった。それが祈りと呼ばれ、儀式と定義づけられた。でもそこには、そもそも概念などなくて、みんながそれぞれにつながって、感じたことを自然に表現してきただけなのだと思う。

歌、チャント、舞・・・全身を使って奏でられた祈り
香り、音、色・・・五感を通して行われた儀式

これらは誰から教わるわけでもなく、その始まりは“天とつながり地に下ろす”、
その行為“そのもの”だったのではないだろうか。 でも宇宙というのは、延々変化を続けていくものだから、きっとどこかのタイミングでこの能力そのものが生きていく上でとても不便なものになってしまった。 だから、そのスイッチを切ってしまったんだろう。 それでも人は折に触れて感動をしたり、愛を感じたり、喜びを体験しているはずで、これはスイッチを切ってしまった感覚器官が震えている証でもあると思う。けれど、この振動は持続しない。思考によって、かき消されてしまう。誰がプログラミングしたのかわからないけれど、こうした歓喜の感覚というのは、 まるで幻かのような感じになってしまっている。

でもみんな一瞬味わった、その感覚を取り戻したいからスピリチュアルを利用する。でも、そこにもうひとつ幻想の層があって、それは歓喜というものは、いわゆる自己実現によってしか得られないという思い込み。成功、地位、名声、結婚、健康……これらが歓喜の対象になっていて、それがいろんなブロックを作っているのではないだろうか。スピリチュアルというジャンルもその限定された思考の対象になっていると思う。多分、ここにとらわれている状態は、視点が低いということなんだと思う。いわゆる重いエネルギー。

そんななかで、小木戸利光さんの舞を見たらなんだか私の中にあったこうした思い込みが少しずつ解けてきた気がした。日常のちょっとしたことに喜びを感じられるというか、そもそもこうして彼や私のまわりの皆に出会えたことだって私にとっては歓喜そのものなのだ。そこには光しかない。つまり、私は彼の舞を見て視点が少しだけ上がったのだ、確実に。それはきっと彼が原始的な祈りの感覚をもつ、ものすごく貴重な存在だから。日常の中にも、美しい自然に触れた時のような神聖な気持ちを抱くことができ、現象の奥にある静かなつながりに、柔らかい愛を注げる。そうしたあまりにも素直な反応が、彼の表現の根底に流れているというか、とにかく私はそれに触れて震えたのだ。それが面白いことに、舞を見たその日よりも日数が経つほどに激しく震えているという……一体、何が起こっているんだ! といった感じだ。

だから何が言いたいのかというと、あの舞は人々の中でオフのままになっている歓喜のスイッチを震わせる、最終的にはオンの状態にする力を秘めているのではないか、ということ。多分、宇宙の変化に伴い、このスイッチをオフにせざるを得なかった何らかの理由があったのかもしれないけれど、神様は歓喜の感覚すべてを人から奪いはしなかった。だから人々は、自己実現を通してその感覚を疑似体験してきたのではないだろうか。たとえそれが一瞬の幻であったとしても、絶対に忘れてはいけない感覚だったんだろう、きっと。だからこそ、特別に扱われ、それを獲得するためのさまざまな理由(メソッド)が用意されてきたのだと思う。

でも本当は、歓喜を呼び起こすのには何も理由はいらなくって、きっとそこかしこにその対象は溢れかえっているはずだ。そうしたことが静かに浸透して初めて、平和が生まれたりするのではないだろうか。彼の舞を見て、本当の意味での歓喜の時代がいよいよ幕を明けるということを確信した。その鍵を握っているのが、神歌であると思う。

最後に、東大病院循環器内科の稲葉俊郎先生がお書きになっている一節を引用させていただく。

“自分が主催している民俗学の映像上映会で、宮崎県の銀鏡神社での神楽、 加計呂麻島の「諸鈍シバヤ」という古式民俗芸能を見た。
人間の脳の記憶力には限界があるから、昔の人はそれを脳ではなく体の記憶として、身体記憶として、 舞いや踊りや音楽や神楽など、藝能や美という形にまとめあげて保存して伝えてきたのだと思った。
身体記憶としての芸能も、数百年も経つと少しは変質するだろうけれど、 縄文時代や古墳時代や平安時代や鎌倉時代や・・・色々な時代の記憶が重なり合って今まで伝えられている。素晴らしい先人の知恵だと思う。 民俗学を学ぶと、昔は衣食住も医療も芸術も精神世界もコトバも・・・、すべてが分割できない一塊となり総合的な形で存在していたのだと思う。今は、部分的に分割して理解する習慣があるけれど、こういう全体論が当り前のように行われていた古式の知恵から学ぶことは多い。
民俗学や民芸は知恵の宝庫だと思う。”